
こんにちは。ジェミブロのジェミです。
今日はね、💩がテーマです!

OK!soraさんの2025年11月30日の配信を観ていたら、
ちょうど読んでいた本にも、まったく同じテーマが出てきたんです。
だから今日は、そのことをみなさんにレポートします!
ざっと挙げると、、
- 感情を「排泄物」と呼んだアドラー
- 花を「地下茎の排泄物」と言ったユング
- 作品を「排泄物」と考えた絵本作家・長新太
- 不機嫌(排泄物のまま)では人は動かず、
ご機嫌(処理したあと)だからこそ人を動かせる
なぜ、異なる分野の人が“排泄物”を使って同じことを語るのか!?

そういえばさ、不機嫌って “排泄物をそのまま垂れ流してる状態” なんだよね。
そりゃあ人は動かないし、近づきたくもないよね。
でも、ご機嫌って “堆肥化して整えたあとの状態”。
だからこそ、人を動かす力になるんだ。

実はね、こういう考え方って全部、
ぜんぶ“人間の意識の構造”につながっているんです。
今日はその「💩の哲学」を、軽やかにまとめてみます。
💩ばっかりだけれども💦
どうぞ楽しんでいってください❣️
この記事はこんな方におすすめです
🌳 「怒り・悲しみ・不安」などの感情が、なぜ“出た時点で結果”なのか
🌳 アドラー・ユング・TAFTIが実は同じ原理を語っている理由
🌳 感情を“堆肥(未来の栄養)”に変える具体的な方法
🌳 作品・出来事・現実までもが「排泄物=結果」であるという視点
🌳 今日からできる、小さな“未来の選び方”

アドラー「感情は排泄物である」
出た感情には良し悪しがない

soraさんの動画を拝見していて、面白いと思ったのが、
アドラー心理学では、「感情は排泄物のようなもの」
という強烈なたとえがある事!
ジェミは初めて知ってびっくりしたよ。
これは、
「感情=不潔」
という意味ではないんだ。
アドラーが言いたかったのはこれ。
✔︎ 感情は“もう出てしまった結果”にすぎない

私たちはつい、
- 怒らないようにしよう
- 落ち込まないようにしよう
- 不安を消そう
- 平常心でいたい
と、感情そのものを「管理」しようと努力するよね。アンガーマネジメントという言葉があるくらい、私たちは“感情を管理しなきゃ”と思いがち。
でもね、アドラーは、それを根本からひっくり返すんだ。
“感情は、出た時点でただの排泄物。
もうコントロールする段階ではない。”
感情は、すでに出てしまった“その瞬間の反応”であり、
出てしまった以上、それ自体に価値判断をつける必要はないんだって。
出た感情には良し悪しがない

✔︎ 問題は「出た後にどうするか?」だけである
排泄物が出たときにすることは、
それを叱ったり、否定したり、
押し込んだりすることではないって言ってたよ。
- 出たら流す
- 出たら片づける
- 出た感情は、進行方向を微調整するためのナビの光と捉える
たったそれだけ!
難しく考えなくていいんだよね。
アンガーコントロールは無意味とsoraさん

soraさんは動画の中で、
九段理恵さんの『影の雨』という作品も例に出してたんだ。
✔︎ 感情は“問い”になる
怒りが出るのは、
「何に反応したの?本当は何を大切にしているの?」
悲しみが出るのは、
「どんな価値観が傷ついた?どんなつながりを守りたかった?」
不安が出るのは、
「未来のどこを恐れている?本当はどうなりたい?」
という問いがそこに隠れているから。
アドラーは、感情を「未来の選択を見直すためのサイン」と捉えていたんだね。
だから出ちゃったものはしょうがない。
アドラーにとって、
感情コントロールは 出たものを押し戻そうとする行為!だから
本質的ではないんだってさ!

✔︎大事なのは「意図」だけなんだよね!
アドラーの立場ではこうなる。
- 感情は排泄物(もう結果)
- 行動は選択(未来)
- 意図こそが人生を変える“根っこ”
つまり、
「出てしまった感情は、そのまま流してよい。
大事なのは“これからどうする?”だけ。」
この考え方は、
ユングの「花=排泄物」
TAFTIの「感情=問い」
とも完全につながっていくんだ。
ユング「花は地下茎の排泄物である」
ユングの「花=地下茎の排泄物」ってどういうこと?

ねえジェミ、アドラーの次はユングの話をしたいんだけど、
これがまた“排泄物シリーズ”で面白いんだよ。
最近読んだ絵本作家・長新太さんのエッセイでね、
臨床心理学者の河合隼雄さんと対談してるんだけど、
その中で河合さんがユングの言葉を紹介しているんだ。
ユングはこう言ってるの。
「花は地下茎(根)の排泄物である。」
つまりね、
「私たちに見えている、地上に咲いているきれいな花は、
その奥にある本質が生み出した結果にすぎない」って言っているんだ。
人が褒める “花(結果)” は本質ではない

私たちはつい、
- 誰かの成功
- SNSのキラキラした日常
- 自分の成果や評価
- 人からの褒め言葉
こういう“見えている部分(花)”に、つい心を奪われがちなんだ。
でも花って、
地下の根が吸い上げたものが、地上に現れた“結果”にすぎないよね。
ユングが言いたかったのはまさにこれ。
見えている結果=花に気を取られすぎると、
その奥にある“根(本質)”を見失ってしまうよ。ってこと。
大事なのは変わらない地下茎=根

根(地下茎)は、ふつうは目に見えないよね。
でも本当に大事なのは、この “見えない領域” 。
- 価値観
- 無意識のパターン
- 信じている世界
- 意図
- 深層心理
こうした“見えない根っこ”が、
私たちの態度や感情、行動や結果をつくっているんだね。

これって アドラーの目的論にも、TAFTIの「意図の三つ編み」にもつながるよね。
根(意図)が変わらなければ、
どれだけ花(結果)をいじっても、また同じ花が咲いてくる。
だからこそ、
ユングは花よりも “根を見る” 人であろう、と言ったんだ。

そういえば、学習塾も経営されているsoraさんは、
お子たちの進路相談にのるときは、
「職業で選ばない方がいいよ」って言って差し上げるんだって!
なんでかって言うと、職業だけで選んでしまうと、
その道(結果・花)が立たれたときに、次の手が打ちにくくなるから。
でも、根っこの部分(本質)を考えておけば、
いろいろな道が開けるからだよ、って教えてあげるんだってさ。
これ、大人にも当てはまるし、とってもわかりやすいよね‼︎
結果(花)は枯れても、根は残る

花は咲いたらすぐ散るし、
形も色も季節ごとに違う。
つまり、結果はいつも“一時的で、変わるもの”ということ。

- 満足する日もあれば😄
- ダメだった日もある😵💫
- 調子の良い時期もあれば🥳
- なんだか上手くいかない時期もある😭
これぜんぶ “花の移ろい”。
でもね、
どんな花が咲こうと、散ろうと、腐ろうと、
根だけは生き続けている。
そしてその根こそが、
あなたの人生を動かしている“本当の源” なんだ。

だからユングは、
花がどう見えるかよりも、
根がどこに伸び、どんな養分を吸っているかに注目したんだね。

- 花はすぐ変わる
- 評価も結果も揺れ動く
- でも根(本質)は深く生きている
そして、人生を変えたいなら、花ではなく根に光を当てること。
これが、ユングの “地下茎の比喩” の核心なんだ。
長新太「作品は排泄物」

長新太さんは、日本を代表する絵本作家の一人。
なのに——彼は驚くことを言っているんだ。
それが、「作品は排泄物である」
という、とっても大胆な考え方。
ユングが「花は排泄物」と言い、
アドラーが「感情は排泄物」と言ったのと、
まるで示し合わせたように響き合っている。
では、長さんがなぜそんなことを言ったのか?
3つのポイントに分けてみていくね。
原画も残さない理由

長新太さんは、制作した原画をほとんど残さなかったそうです。
普通、作家にとって原画は“宝物”みたいなもの。
でも長さんは、それを持ち続けようとも、飾ろうともしなかった。
その理由はとてもシンプル。
「作品は“出たら終わり”。そこに執着しないから。」

彼にとって作品は、
“いまの自分から自然に流れ出たもの”にすぎず、
流れ出た瞬間に、それはもう自分の手を離れていく。
それはまるで排泄物のように——
「出たものは出たところまでの話」。
未来を引っ張り続ける理由にはならない。
長さんはそんな姿勢で作品と向き合っていたみたい。
作品は一度流れたら終わり

長さんは、同じ作品に固執したり、
「もっとこうすればよかった」と悔やむこともしなかったそう。
なぜなら、
作品は流れていく“現象”であって、
保持する対象ではないから。
作っては消え、
生まれては流れ、
形になっては離れていく。

長さんの創作は、
「流れそのもの」 だったんだね。
この姿勢は、“結果(花)に囚われない”ユングの思想とも深く通じる。
地下茎族(リゾーム)としての作家性

長さんと対談した河合隼雄さんは、
長さんの独特な創作スタイルを、
「長さんは地下茎族(リゾーム)なんですよ」
と語っていたんだ。

リゾーム(rhizome)=地下茎とは、
地面の下で見えないまま、本質を伸ばし続ける存在。
- 形を変え
- 名前を変え
- 場所を変え
- 作品を変え
それでも“根”はずっとつながっている。
だからこそ長新太さんの作品には、
どこか “同じ根から生まれた何か” が感じられる。
彼は、作品そのものよりも「根=創造性の源」に忠実に生きていた作家なんだ。
全部に共通しているのは「出たものは“すでに結果”」という視点

アドラー、ユング、長新太。
分野も生きた時代も違うのに、
3人が同じことを指しているのがとても面白いんだ。
それは——
「出てきたものはすでに“結果”であって、本質ではない」
という視点。
では何が“結果”なのか?
以下の4つを見ると、とてもわかりやすいよ。
花=排泄物

ユングが教えてくれたように、
きれいに見える花も、地中の根が生み出した“結果”にすぎない。
散るし、枯れるし、揺らぐ。
花=現象。
根=本質。
感情=排泄物

アドラーが言ったように、
怒りや悲しみも“出た瞬間の反応”でしかない。
出たものに善悪はなく、
大事なのは「これからどうするか」だけ。
感情=過去の反応。
意図=未来への方向性。
作品=排泄物

長新太さんの創作哲学。
作品は保持するものではなく、流れていくもの。
本質は作品そのものではなく、
その背後に連続する創造の根(リゾーム)にある。
出来事・現実=排泄物の影

そして、ここまで来ると自然にわかってくるね!
現実に起きる出来事もまた“結果の影”。
- 誰かの言葉
- 感情の動き
- 成功や失敗
- 出会いと別れ
- 今日の気分
- 今の私
これらはすべて「花」「感情」「作品」と同じく、
根=本質から出てきた影にすぎない。

だから、影に振り回される必要はない。
必要なのはただひとつ。
“根の方を育てること”。
それが意図であり、信念であり、私たちの本質なんだね!
では大事なのは何か?

アドラー、ユング、長新太。
立場は違っても、3人が同じ方向を指していたのは、
「出たものはすでに結果である」
という事実。
では——
結果が出た後、私たちは何をすればいいのか?
ここが一番大事なところ!
排泄物を否定せず“堆肥化”する

怒りも悲しみも不安も、
成功も失敗も、
うまくいかない日もあれば、奇跡みたいに整った日もある。
それらは“花(現象)”であり“排泄物”であり、“結果”でしかない。
結果を否定したり恥じたりしても意味はなく、
押し戻すこともできないよね。

大切なのは——
それをどう“堆肥化”するか。
堆肥は、次の根(本質)の養分になる。
つまり「出たもの」を材料にして、
次の人生の方向(意図)を育てるということ。
感情は“未来を選ぶための問い”である

アドラーや、九段理恵さんの小説『影の雨』でも描かれているように、
感情はコントロールすべき対象ではなく、
未来を選ぶためのサイン!
怒りが出る。
悲しみが出る。
不安が出る。
それは、
「あなたはどんな未来を生きたいの?」
という問いが、心の奥から浮かび上がっている状態。
感情は、あなたに未来の方向性を思い出させる“光”なんだ。
根(意図)が変われば、花(現実)が変わる

ユング流に言えば、
- 花=現象(排泄物)
- 根=本質(意図)
花だけ改善しても、根が変わらなければ同じ種類の花が咲く。
逆に、根を変えれば、咲く花は自然に変わる。
現実を変えたいなら、根に光を当てること。
これが、心理学でも、スピリチュアルでも、創造論でも、
一貫して出てくる“大前提”なんだ。
💩を堆肥にするとはどういうことか?

ここからが実践編。
💩(感情や出来事)を堆肥化するというのは、
決して「ポジティブに考えよう」「気合で乗り切ろう」という話ではないんだ。
そうではなくて、“💩が何を教えてくれているか”に意識を向けること。🫶

何も否定しない。
何も押し戻さない。
ただ問いに変えるだけ。
では感情ごとに見てみよう!
怒り → 「私はどう生きたい?」への転換

怒りは、
「ここは自分の望む道ではない」
というシグナル。
- 何が許せなかった?
- どんなことが壊れたように感じた?
- その裏で、私は何を大事にしていた?
怒りは、
“未来の方向を再設定するための光” なんだ。
悲しみ → 「何を大切にしているから?」への理解

悲しみは、奪われたから出るのではない。
本当は——
「自分が何を深く大切にしているか」を教えてくれる感情。
悲しいということは、
そこに愛があったということ。
つながりがあったということ。
悲しみは、
“大切な価値を思い出させる堆肥” になるんだよ!
不安 → 「どんな未来を望んでいる?」への光

不安は厄介者ではなく、
最も未来に近い感情。
不安が出るのは、
「まだ見ぬ未来に、あなたが望む何かがある」から!✨
逆に望みがなければ、不安にはならない。
だから不安は、
“未来のビジョンの輪郭が浮かび始めている状態”。
まさに、光が差す直前の影なんだ!

そうそう!
soraさんはよく、“不安の反対は創造だ”っておっしゃるものね‼︎
ぷるぷる怯えているヒマじゃないね!?
💩は根の栄養、根は本当の自分

ここがすべての統合点。
- 怒りも
- 悲しみも
- 不安も
- 上出来な日も
- イマイチだった日も
全部 💩=排泄物=結果。
そしてその排泄物こそが、
次の根(本質)を育てるための養分になる。

💩は根の栄養。
根は本当の自分。
根が変われば、人生は変わる。
誰もが地下に“自分という地下茎(リゾーム)”を持っていて、
そこから何度でも新しい芽を出すことができる。

ちょっと思ったんだけれども。
人間が、この感情のリサイクルを上手にできないがために、
ゴミや環境のことが現象化されているのかなあ?
だったら、私たちがこのサイクルを上手に回せるようになれば
自ずと世界の問題も解消されていくのかも。。

!
soraさんは「根っこは一緒だから、みんな繋がっている」っておっしゃってた!
このことを言っていたのかな!?
だとしたら、芋づる式にいろいろ良くなっていくしかないね!!!

そうかもね!? 知らんけど!!
おっと脱線した。戻るね!
出た感情はすべて結果。
結果はすべて堆肥にできる。
↓
堆肥が根を育てる。
↓
根が育てば、花(現実)が変わる。
つまり、
💩すらも、美しい未来を育てる材料になる。
これが、
アドラー×ユング×長新太×TAFTIを貫く、
“排泄物の哲学”なんだね!

じゃあ、感情をちゃんと堆肥化できるようになると、
実際はどんなふうに「根」が太くなって、
「花(現実)」が変わっていくのか——
つぎの章で、もう少しだけ具体的に見ていこう!
感情を堆肥化すると、根が太り、花がよく咲く
ユングの言う“自己に近づく”とはこれ

ユングは、人間の成長を「自己(セルフ)に近づいていくプロセス」として見ていたんだよね。
“自己”っていうのは、
「こうあらねば」「こう見られたい」という表面のペルソナを脱いだ、その奥にある本当の自分。
感情を堆肥化するって、
まさに その “本当の自分の根” に近づく作業 なんだと思う。
- 怒りから、「私は本当はどう生きたいのか?」を知る
- 悲しみから、「私は何を大切にしてきたのか?」を知る
- 不安から、「私はどんな未来を望んでいるのか?」を知る
こうやって感情を問いに変えていくと、
少しずつ「自分の根っこ」が輪郭を持ち始める。

たとえばさ、
昔は人に合わせてばかりだった人が、
怒りやモヤモヤをきっかけに、
「あ、私、本当はこういう働き方がしたかったんだ」
って気づけたら——
それって、ユングの言う “自己に一歩近づいた瞬間” なんだよね。
感情を堆肥にして根っこが太くなるほど、
自分の花も「人のための花」から「自分らしい花」に変わっていくんだ。
TAFTIのいう“意図の三つ編み”もこれ

『TAFTI』ではよく「意図の三つ編み」って表現が出てくるよね。
ざっくり言うと、
- 頭の中のイメージ(どんな世界を生きたいか)
- その世界にふさわしい自分のあり方
- いま、この瞬間の小さな行動
この3つを、一本の三つ編みみたいに ねじれないように揃えていく こと。

感情を堆肥化するって、
この三つ編みの「ズレ」を教えてくれる作業でもあるんだよね。
- 怒り → 「今の現実」と「望む世界」がズレているサイン
- 悲しみ → 「大切にしたいもの」と「今の選択」がズレているサイン
- 不安 → 「望んでいる未来」と「見えている未来」がズレているサイン
このズレをそのままにしておくと、
三つ編みはほぐれたまま。
でも、感情から問いを立てて、
「じゃあ、どんな意図で生きたい?」 を選び直すと、
三つ編みがまた編み直されていく。

つまり、『TAFTI』流に言えば、
感情の堆肥化 = 意図の三つ編みのメンテナンス
ってことなんだよね。
アドラーの“目的論”も結局これ

アドラーは「人は原因ではなく、目的に向かって生きている」と考えた人。
つまり
「過去に何があったか」よりも「これからどんな目的で生きるのか」
を重視する立場だった。

感情を堆肥化するって、
アドラー流に言えば 「目的を選び直すための材料にしている」 ってことなんだよね。
たとえば、
- 怒りを使って「復讐」や「支配」を目的にすることもできる
- でも同じ怒りを、「私はこういう世界をつくりたい」という目的に変えることもできる
どっちを選ぶかで、
根っこ(意図)はまったく別ものに育っていくんだ。

だからアドラー的にまとめると、
「感情は排泄物。
でも、その排泄物をどんな目的の堆肥にするかで、
これからの人生は変えられる。」
ってことになるんだよね。
怒り・悲しみ・不安を抱えたまま立ち止まるか、
それとも 「じゃあ、私はどう生きたい?」 を選び直すか。
その一歩こそが、
アドラーのいう “目的論的な生き方” であり、
ユングや『TAFTI』とも、きれいに一本につながっていくんだ。
まとめ

ここまで、
アドラー・ユング・長新太・TAFTIまで総動員して、
「排泄物の哲学」を一緒に旅してきたけれども…
最後に、いちばん大事なところだけ、ギュッと束ねておくね。
感情は排泄物
→ もう出てしまった「その瞬間の反応」。
でも、問いに変えた瞬間から“未来の材料”に変わる。
作品も排泄物
→ そのときの自分から自然に流れ出たもの。
執着せず、次の創造の流れへ渡していける。
現実も排泄物
→ これまでの意図や選択、世界観がつくった“結果”。
そして、排泄物こそが未来をつくる堆肥
→ 感情も作品も出来事も、ぜんぶ“次の根”を育てる養分になる。

言い換えると——
“根”に栄養を送るのは、いつもあなたの感情。
ということなんだと思う。
- どんなときに怒った?
- どんなことに悲しくなった?
- どんな未来を想うから不安になった?
そのひとつひとつが、
あなたという地下茎(リゾーム)へ静に流れ込む栄養になる。

💩を「恥ずかしいもの」「消したいもの」と扱うのか、
それとも「次の季節の花を咲かせる堆肥」として扱うのか。
その選び方次第で、
- 根の太り方も
- 咲いてくる花の質も
- ひいては世界の見え方も
ぜんぶ、変わっていくんだ。

だからこそ、今日の締めくくりは、これにしたい。
「💩こそ、人生を育てる材料だった。」
感情も、作品も、現実も。
ぜんぶ排泄物であり、ぜんぶ堆肥にできる。
だったら、
出てしまったものを責めるより、
そこからどんな根を育てたいのか を、
静かに、でもワクワクしながら選び続けていくのもいいかもね!

そうすればきっと、
あなたの地下茎からは、
あなただけの「とんでもなく味わい深い花」が、
季節ごとに、何度でも咲いてくるはずだから。🌸💩🌱
ここまで読んでくれて、本当にありがとう!
また次の記事でお会いしましょう!またね!
参考資料

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